安積国造神社
  宮司 安藤智重

〒963-8005
 福島県郡山市
 清水台1-6-23
 TEL:024-932-1145


平成17年(2005)、社団法人郡山青年会議所が市民とともにワーキンググループを組織して制作した「郡山八景散策マップ」をもとに作成された映像です。


郡山八景のご紹介
郡山の歴史、再発見「郡山八景」



郡山歴史10選


 
旧事本紀(阿尺国造)

10選の1 阿尺国造(あさかのくにのみやつこ)

『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の「国造本紀」(くにのみやつこほんぎ)には全国の国造(くにのみやつこ)がしるされ、その中に、安積国造比止禰命(ひとねのみこと)も記載されています。
それによりますと、比止禰命が国造に任ぜられたのは第13代成務天皇の御世ということになります。『先代旧事本紀』は、『古事記』『日本書紀』とともに極めて価値が高い古代史料で、9世紀に成立しました。

  成務天皇ご在位の年代については、倭の五王の年代から推し量ることが出来ます。
讃、珍、済、興、武は、413年から478年までの間に9度、中国へ使節を送っています。
五王は第16代仁徳天皇或いは第17代履中天皇から第21代雄略天皇までと推定されています。
その年代からさかのぼると、350年ぐらいが成務天皇の治世になります。
大安場古墳は丁度その年代で、古墳からは大和朝廷とのつながりを示す石釧(いしくしろ)が出土しています。

  国造伝承によれば、初代安積国造比止禰命は、未開の地を開いて国を建てるに際し、はじめに阿賀岐山(あかぎやま)に社稷(しゃしょく)の神をお祭りしました。
それが安積国造神社の起源です。
阿賀岐山は今の赤木町にあり、山裾は星総合病院の先まで広がっていました。
しかし、会津新道の造成や駅前の湿地埋め立てのため、土砂が削り取られてしまいました。
昔のまま残ったのは、赤木神社と大欅、神山霊園(国造神社宮司安藤家墓所)のみとなりました。

  阿賀岐山には、比止禰命が葬られたと思われる赤木古墳が築かれました。
東北最大級の前方後円墳です。
丘陵などの上の方に、自然の地形を利用して造るのは古い時代の古墳の特徴です。
阿賀岐山の北側には逢瀬川が流れ、その一帯、今の若葉町は、幣導内(へいどうない)という地名が昭和30年代まで残っていました。
幣導内とは、お祭りの時の御幣の通り道を示すものです。
古代の祭祀に関わる重要な地名でした。

  大化の改新以降律令制がとられ、安積国は安積郡と、国造は郡司となりました。
安積郡は東北経営の重要拠点でしたので、陸奥国司と同等の位階に特進した郡司も出ています。

  718年、陸奥国から一時的に分かれた石背(いわしろ)国の国府は郡山の方八丁に置かれたらしいのです。
国府由来の地名が残っています。
すなわち、方八丁(八丁四方、全国共通の国府規模)、鴻巣(方八町二・国府)、御殿(熊野福蔵神社・高官居住)、辺代内(芳賀・国府の雑役の者居住)、銀白(芳賀一・銀行)、兵庫田(本町一及び方八町一・武器庫)、達中場(中町及び方八町二・塔頭)、燧田(燧田及び駅前一、中町・かがり、のろし、通信施設)、宮田(富久山町久保田)、腫物田(本町・病院)、歩行内(芳賀小・国府警固兵居住)、木戸前(横塚六)、水門町(海陸交通、船着場)、梅ノ木、高石(望楼)、薬師堂(仏寺)、諏訪(武神)です。。
 

10選の2 安積山の歌

日本人は漢字文化の受容を経て新たに万葉仮名を作り出し、それまで音声言語のみだった大和言葉を書き留めるようになりました。
そして、詩歌を文字にあらわそうということが試みられ、『万葉集』が編まれました。

  『万葉集』巻第16は、特にいわれのある歌を集めた巻です。そこに安積山の歌があります。

  安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

  歌の意味は、

  安積山の影までも映す山の泉、それほどに浅い心を私はもたないものを。

  この歌には以下の詞書(ことばがき)が書き添えられています。

  葛城王が陸奥国に派遣された時に、国司の接待がはなはだしくなおざりでした。
王は不快な表情になり、酒宴の席を設けてもけっして楽しみませんでした。
そこに、采女の務めを終えてさがっていた風流な娘がいました。
彼女が左の手に盃を持ち右手に水を執って王の膝を叩き、安積山の歌を口ずさんだところ、王の心も和らいで一日中酒宴を楽しみました。

  延喜5年(905)の『古今和歌集』に、紀貫之が書いた仮名序があります。
ここに難波津と安積山の歌が引かれ、「この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。」と書かれました。

  平成20年、表に難波津、裏に安積山の歌を書き記した歌木簡の破片が確認されました。『万葉集』が編まれる以前の地層からの出土でした。
安積山の歌がもともと広く流布していた歌であったことがうかがわれる史料です。
貫之が指摘した「歌の父母」の根拠は150年さかのぼることとなりました。

  安積山は、額取山と安積山公園(日和田)が候補地ですが、額取山説が有力だと思われます。
或いは、御霊櫃峠から安積山に至る連山全体のことを指すのではないかと思われます。
同じく歌枕である安達太良山も、連峰全体のことを言っているわけですから。
日和田の安積山は、安積山に見立てられた丘だったのではないでしょうか。
ともかく、郡山に、安積山、安積沼(日和田)、そして安達太良山と、3つの歌枕があることは誇るべきです。
 
 
安積山

 
安積郡衙の一角、芳山公園

10選の3 古代安積郡郡衙(ぐんが)

「郡山・郡」は郡衙所在地に残る地名です。
県内では、郡山市、二本松市杉田の郡山、伊達郡の桑折・上郡・下郡、双葉町の郡山、富岡町の上郡山、会津若松市の郡山などがあります。
郡山市名発祥の郡衙が所在したのは清水台・虎丸の一帯です。
古代安積郡郡衙跡また清水台遺跡と呼ばれます。
遺物が出土する範囲は南北7〜800メートル、東西430メートルです。

  この郡衙の瓦は、今の麓山公園などの斜面に築かれた大掛かりな瓦窯で生産されました。
郡衙跡から多く出土している須恵器も、窯を築いて生産されるものでした。
須恵器は内外とも黒色の土器で、専門の工人によって製作されました。

  安積山の歌の葛城王は、朝廷から公用で来郡したのですから、宴席は安積郡衙内の貴賓を迎える建物に設けられたものと思われます。
安積郡衙は、若き日の葛城王ともとの采女が出会った舞台なのです。
現在、郡衙の一部が芳山公園となっていますが、同公園を安積郡衙公園と改称し、公園に安積郡衙跡の石標を建てるべきです。
「芳山」は、「かおるやま」から、「こおりやま」になったという、捏造された地名伝説にもとづく名ですから、ゆくゆくは消し去るべきです。

  郡山には虎丸長者の伝説があります。
虎丸長者は、昔、上台から皿沼にかけて屋敷を構えていた大金持ちでした。
大きな屋形は瓦葺きで、いろは四十八棟の米蔵があり、観音堂があって、鐘堂の釣鐘が鳴りわたり、力持に住んでいる使用人は米俵の出し入れに精出し、下男下女がたくさんいて米を研ぐ長者池や細沼は真っ白になり、下女は皿沼で食器を洗ったと伝えています。
安積郡衙の存在が、千古の昔から伝承されていくうちに変形していったものと思われます。
 

10選の4 安積伊東氏

安積伊東氏の祖工藤祐経は頼朝の重臣でした。
戦功により全国24ヶ国に所領を与えられました。
文治4年(1193)、祐経は富士の巻狩りで曽我兄弟に討たれました。
その次男伊東祐長が安積伊東氏の初代です。
伊東氏は伊豆国伊東庄の豪族で、藤狐郡内に割拠し、各家は舘と呼ばれる城館を構えました。
それで、郡山には舘の付く地名が多いのです。
その支配は約400年ほど続いて戦国の乱世に終焉を迎えました。
安積は交通の要衝で、戦略上重要な地点ですから、各勢力がぶつかり合う場所となりました。

  天正16年(1588)郡山合戦がありました。
伊達と芦名・佐竹などの連合軍が郡山で激突、死闘を繰り広げました。
乱戦の中、縦横に戦い、政宗の身替りになって戦死した武将が伊東肥前です。
元禄3年(1690)、肥前の墓碑を戦場の逢瀬川岸に立てて追悼、仙台藩主はここを通る時、必ず香華を手向けました。
碑は現在久保田の日吉神社にあります。
 
 
伊東肥前墓

 
宇津峰山

10選の5 宇津峯城

郡山には国の史跡に指定されている城があります。
宇津峯城です。
宇津峯山は標高677メートル、山頂から諸郡が一望出来る要害の地に位置します。
宇津峯城は山の地形を利用して築かれた天然の要塞です。
南北朝時代に南朝方が立て籠もったことで日本史上の城となりました。

  南北朝時代は日本全体が二手に分かれて60年も争いを続けるという、比較的平和なこの列島においては特異な時代でした。
南朝は、北朝の内紛に乗じて勢力を盛り返そうとしました。
観応2年(1351)、後醍醐天皇の皇子尊良(たかよし)親王の子、守永王が宇津峯城に下向しました。
以後、守永王は宇津峯宮と呼ばれます。
その年、北畠顕信が出羽に兵を挙げ、北朝軍は国府多賀城から出動して討伐にあたりました。
以後、南朝方と北朝方との激戦が幾度も展開されました。
文和2年(1353)、宇津峯城がついに落城しました。霊山も陥落し、宇津峯宮を奉じた北畠顕信は出羽へ敗走しました。

  宇津峯山には、千人溜(20メートル四方、土塁で囲まれている)・御井戸・玉ヶ谷・鐘撞堂跡・見晴台・馬場平といった旧蹟が残ります。
 

10選の6 篠川御所(ささがわごしょ)

室町時代、御所と呼ばれた城館が存在しました。
篠川御所は、安積永盛駅から旧国道を南へ500メートル、阿武隈川の西岸にありました。
この城館の土塁跡には東館稲荷神社が祀られています。
神社脇からは、かわらけ(武士が宴に用いた土器)や陶磁器が出土しています。
御所跡の形状は、旧国道をほぼ中心に南北1町半(約180メートル)、東西1町(約120メートル)の長方形です。
当時の街道は旧国道よりも西側を通っていて、御所の正面は街道に面していました。

  室町時代、京都にあった幕府の出先機関として、関東10ヶ国の経営にあたった鎌倉府がありました。
鎌倉府には将軍の代行として鎌倉公方が君臨し、補佐役として関東管領が置かれ、その下に評定衆、侍所、問注所が配されました。
応永6年(1399)、鎌倉公方足利満兼は、弟の足利満直、足利満貞を奥州支配のために下向させました。
満直は篠川(安積町笹川)に、満貞は稲村(須賀川市)に、それぞれ軍事機能を持った御所を構え、篠川公方、稲村公方と称されました。
しかし、当時の奥州は、幕府と鎌倉府が覇権を争うような状況にあり、嘉吉2年(1442)、篠川公方は攻められて命を落とし、御所は滅びました。

  この篠川御所に関わる史跡が今も残っています。
近くの熊野神社(字熊野前)や篠川神社は、篠川御所鎮護として創建された神社です。
篠川公方は、御所の近くに天性寺、龍性寺(廃寺)を建立しています。
御所の南に荒川という小川が流れ、1・5キロメートル上流に荒池があります。
篠川公方が、水利のために堤を築き、この池を造成したと伝えられています。
 
 
東館稲荷神社(篠川御所)

 
三春道・道標(郡山宿)

10選の7 郡山宿のにぎわい

近世以前の街道は、日出山から小原田の東、芳賀池の辺、久保田・福原の東を通る阿武隈川に沿った道でした。
街道が整備されて西へ移ったのは慶長9年(1604)以降です。
街道の移設とともに各村落も西へ移動しました。

  元和9年(1623)、郡山の町並みが区画整理され宿村としての形が整いました。
寛永20年(1643)から、郡山は二本松藩に属し、安積三組(郡山・大槻・片平)の代官所が陣屋に設置されました。
蔵場(今の金透小)には安積3万石の米が集積しました。
郡山宿は、安積郡の行政、物流の中心地となりました。
本陣、脇本陣が置かれ、文政12年(1829)には旅籠屋47軒を数えました。

  文政7年(1824)、郡山宿は、上町、下町の2町からなる宿場町に昇格しました。
その時の人口は約3500人、慶応年間には約5000人を有しました。
川崎宿2433人、神奈川宿5793人(天保14年)と比べても遜色がありません。
宿の南北端の入り口には街道随一の木戸が築かれ、町へ出入りする人馬を監視しました。

  郡山宿は、繊維・金融業を中心に商業が発展し豪商が多数現れました。
生糸商の冨屋安藤家・甲斐山家・蜿タ家、蚕種商の滝田家、金融業の小野屋阿部家・東小野屋阿部家・伊勢屋橋本家・西伊勢屋橋本家・武田重蔵家、呉服の澤屋遠藤家・鴫原家・佐藤伝兵衛家・津野家、魚問屋の永戸家、醸造の富屋齊藤家、酒造の山口家・菊屋高橋家他、枚挙に暇がありません。
経済的な豊かさは学問レベルの向上にも繋がりました。
安積国造神社安藤親重・重満父子は郡山に本居宣長の国学を浸透させました。町人の好学は、時代の急激な変化に対応し得る思考能力を身に付けることとなり、近代郡山発展の原動力となりました。
 

10選の8 大儒安積艮斎先生

江戸時代は儒家の論理で国を治めた時代でした。
林羅山、林鵞峰、木下順庵、新井白石、荻生徂徠、室鳩巣、柴野栗山といった名だたる儒学者が幕政に参画し幕藩体制の根幹を担いました。林家は代々大学頭としてその中核に位置しました。

  林家中興の祖と言われる林述斎が大学頭となり、述斎の議により林家の家塾を廃し幕府直轄の昌平坂学問所が発足しました。
それ以来、旗本、御家人の子弟をはじめ、全国から俊才が集う最高学府となりました。
幕末、郡山出身の儒学者安積艮斎がこの学府の教授に任ぜられたことは、郡山の歴史の中でも特筆すべきことです。

  昌平坂学問所教授安積艮斎先生は、安積国造神社第55代宮司安藤親重の三男に生まれました。
同神社には、艮斎の記念館、銅像、撰文碑、誕生地の碑があります。

  艮斎は、江戸へ出て佐藤一斎、林述斎の門人となり、頭角をあらわして、江戸神田に私塾を開きました。『艮斎文略』(ごんさいぶんりゃく)の出版によって有名になり、『遊豆紀勝』(ゆうとうきしょう)などの紀行文や漢詩も高い評価を受け、東に安積艮斎あり、西に斎藤拙堂ありという時代をつくりました。

  その学問は朱子学をもととし、学派にとらわれることの無い自由な学風で知られました。
開明的な学者や幕臣が集まった尚歯会の一員で、渡辺崋山、高野長英らと外交を論じた時期もありました。
しかし、蛮社の獄によって言論が圧殺されました。

  その後も艮斎は西洋列強の世界侵略に対する危機感を持ち続け、海外の情報収集に力をそそぎました。
世界の状況や海防意見をまとめた啓蒙書『洋外紀略』は、写本として知識人に読まれました。
黒船来航の折は、アメリカの大統領の国書翻訳を担当、日本近代の幕開けに立ち会うこととなりました。

  国史にも造詣が深く『史論』などの著作を残しています。

  艮斎学の包容力の大きさから、様々な門人が艮斎に学びました。
2282名の門人中、300名は一家を成したという時代もありました。
艮斎の教えを受けた門人たちが日本の近代を形作ったと言っても過言ではありません。
 
 
幕末の儒学者
安積艮斎先生銅像

 
大槻原開墾

10選の9 大槻原開墾

大槻原開墾は、郡山宿、大槻村、富田村、小原田村の入会地であった大槻原を開墾した事業であり、福島県令安場保和(やすばやすかず)の殖産興業政策の一環として行われました。

  安場は明治5年(1872)福島県令に就任し、福島県の近代化を進めました。
大久保利通など中央政界の人脈を持ち、優れた政治力を発揮した人です。

  江戸後期、郡山宿では、金融業、生糸商はじめ商業が発展し、豪商が大勢台頭していました。
安場が大槻原開墾のために派遣した現地の担当官中條政恒は、郡山商人の豊富な財力を活用することを考えました。
中條の説得に応じ、郡山の阿部茂兵衛以下25人が出資して開成社が発足しました。

  開墾に関わる業務は県で行い、開成社の資金と官からの借入金によって開墾が進められました。
明治6年(1873)、灌漑池の開成沼、周囲860メートル、高さ3・8メートルの築堤工事に着手しました。
今も開成山公園の周囲にその堤が残り、桜が茂っています。
この灌漑池から周囲に用水が供され、新田76町歩、新畑140町歩の開墾が実現しました。
次いで三層楼、西洋風の開成館を新築し、区会所(郡役所)及び県開拓掛の事務所として使用しました。

  開拓起業の鎮護として伊勢神宮の御霊代を奉祀、開成山大神宮を創建しました。
 

10選の10 国営安積開墾

内務卿大久保利通は、士族授産、殖産興業の一環として、開墾するのに適した場所を求めて、東北地方を調査しました。
風土や気候、地形、村落の状況、水利など調べた上で、青森県の三本木原と福島県の大槻原及び諸原野が開墾に適しているという結論を出しました。
ファン・ドールンの指導により、疏水工事に関わる調査が行われました。

  安積開墾と猪苗代湖からの疏水の開鑿は、内務省直轄で行われることとなりました。
安積開墾の予算規模は、国家予算の1%強の65万円です。
開墾は当初4000町歩の諸原野を2000戸の士族を移住させて開墾しようとするものでした。
しかし、大久保が暗殺され計画は縮小しました。

  明治15年(1882)8月、安積疏水が完成しました。
のべ85万人の労働力をつぎこみ、40万7千円を投じ、幹線水路の延長52km、分水路78km、トンネル37か所という規模を誇り、受益面積は3000町歩に及びます。
久留米藩141戸・土佐藩106戸・鳥取藩70戸・二本松藩24戸・会津藩36戸・棚倉藩74戸・松山藩15戸・米沢藩11戸・岡山藩4戸他、498戸が移住しました。

  しかし、開墾の実情は厳しいものでした。中條政恒の孫百合子が、その現実を小説に書き記しています。


- 中條(宮本)百合子『貧しき人々の群れ』より -

  私共の先代は、このK村(桑野村)の開拓者であった。
首都から百里以上も隔り、山々に取り囲まれた小村は、同じ福島県に属している村落の中でも貧しい部に入っている。

  明治初年に、私共の祖父が自分の半生を捧げて、開墾したこの新開地は、諸国からの移住民で、一村を作られたのである。
南の者も、北の者も新しく開けた土地という名に誘惑されて、幸福を夢想しながら、故国を去って集って来た。けれども、ここでも哀れな彼等は、思うような成功が出来ないばかりか、前よりも、ひどい苦労をしなければならなくなっても、そのときはもう年を取り、よそに移る勇気も失せて仕方なし町の小作の一生を終るのである。
それ故彼等は昔も今も相変らず貧しい。

 
 
大久保神社(国営安積開墾)
 
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